祝いのカンパナ

msms blog & diary

続・『無い才能の、見切り方』を読んで

msms.hatenablog.jp

 昨日僕が書いたこの文章でターゲットとしたのは、習得するまでに 1,000 時間を超えるような類の技術の話だ。例えば英語学習であったり、プログラミングであったり、まぁ人によって思い浮かべるものは違うと思うけど、うまくすれば職業とか収入に直結するような、とにかく莫大な時間やお金を投資する必要が生じる類の技術の事を念頭に置いて書いた。

 その一方で昨日触れていなかった領域の話がある。世の中には習得するのに大した時間やお金や、ましてや才能なんか必要ではない技術というのもたくさんある。人によっては趣味とか特技とか呼んだりする。そういう類のもので気になったものがあるならば、自分に才能があるとか無いとか気にせずに、「とにかくちょっとでも良いからやってみる」方針にしておくのが良いかもしれない。

 

 僕にとってコーヒーを淹れることは才能があったみたいだ。行きつけの美容室で出してくれるコーヒーがむちゃくちゃ美味しくて、毎日でも飲みたいなあと思って、いろいろ本や動画を見たり、喫茶店の人に聞いたりしてみて 3 年前ぐらいから始めた。初期投資が 3 万円ぐらいで、コーヒーを 1 日 1 杯淹れるのにかかる時間はたったの 10 分、かかるお金は 50 円だ。最初は上手くいかなかったけど、 3 ヶ月も試行錯誤して毎日淹れているとだんだんコツがわかってきて、趣味のレベルではマスターできてしまった。 1 日 10 分 × 3 ヶ月だから 15 時間、本を読んだりする時間も含めると 20 時間しかかからなかった。

 僕にとってテレビゲームで遊ぶことは才能が無かったみたいだ。ゲームは 10 年近く遊んでなかったんだけど、 Nintendo Switch の発表をみて久しぶりにゲームをやってみたくなって、趣味が少ないので良い趣味になったら良いなあと思って買ってみることにした。が、いざ買ってみたら最初のうちは面白かったけど、1 ヶ月経った今はもう全然触っていない。まぁそのうちまたやりたくなるかもしれないけど。 4 万円弱の痛手だけど、1 週間働けば取り戻せるお金だし、上手くいかなかったけどまぁやってみた価値はあったんじゃないかな、と思う。

 

 「才能」の定義は人によって違うと思うんだけど、僕は才能とは(上手いとか下手とかじゃなくて)継続できること、という定義を採用している。この定義は僕が考えた訳ではなくて、結構いろんな有名な人が言っていることだ。この定義を採用すると、別に意識的に時間やお金を投資した訳ではないけど、歯を磨くのと同じぐらい自然に続けている類のものも才能と呼べることに、ある日気付くことがある。

 僕は全然上手く喋れなくて、人と会った時はずっと聞き手に回っているんだけど、これは裏を返してみると「傾聴」の才能があるんじゃないか、と最近思い始めてきている。コミュニケーション本とかでよく言われる「相手の話を上手く引き出す」みたいな技術は一切使っていないし、やろうとも思わない。ましてやお悩み相談なんてやっている訳でもない。相手が 10 とか 50 とか喋ったら、1 つ相槌を打つだけぐらいのことしかやっていない。相手の話に共感しようがしなかろうが、本当にただ相手の話を聞いているだけなのだ。それなのに相手は相手の話をどんどん喋ってくれる。人が何を喋ったかなんて、記憶力が弱いので全然覚えられないというのに。

 これは一体なんなのだろうか。もしかしたら、世の中には話を延々と聞いてくれる人というのがそんなに足りていないのだろうか? だとしたら、この自分の「傾聴」とも呼ぶべき、聞くという自然に続けてきたことは、才能と呼んで良いんじゃないか? と、そんな事を最近考えている。

 それならば、聞く時間を増やせば自分も楽しいんじゃないかと思って、最近はいろんな人に声をかけていろんな人の話を聞くようにする機会を増やしたいと考えるようになってきた。「人の話を聞く趣味」、こんなのも趣味として成立するのかなあ。試しにやってみるか、とにかくちょっとでも良いから。